童貞と包茎

 童貞の研究をしていた。今は包茎の研究をしている。正確にいうと、童貞や包茎が「問題」となる社会についての研究なのだが、初対面の人からなんの研究をしているのかと問われれば、以前は「童貞についてです」と答えていたし、今なら「包茎についてです」と答えている。
 その時の男性たちの反応が、「童貞」と「包茎」でまったく逆なのに驚いている。「童貞についてです」と答えていた頃、男性たちは突然くだけた態度になり、「ボクも童貞です」とニヤニヤ笑いをしだすのであった。言外の意味は「もう卒業したけどネー」である。優越感および「いやいやご冗談を」というセリフを待っている感じがすごく、はじめは閉口していたのだが、何人もの男性たちが同じことをいうので、そういうものだと思うことにした。
 ちなみに、上記のニヤニヤ対応をする男性の年齢は問わない。いくつになっても非童貞であることを誇る人は誇る。きっとほかに誇るものがないのだろう。
 今は「包茎についてです」と答えている。またもニヤニヤ笑いで「ボクも包茎です」と返されるのかと思いきや、ぜんぜん違った。彼らはとつぜん青ざめ、黙ってうつむくのだった。非包茎ならそのような反応はしないはずなので、当人は仮性または真性の包茎であり、「とんだ自己申告だな……」と思いはするものの、そんなこと、とても口に出せる状況ではない。包茎コンプレックスの根の深さを思い知らされる。
 こんなことが、「あるあるネタ」として成立するぐらい頻繁に起こる。いかんせん、私以外の童貞研究者や包茎研究者に会ったことがないので、「あるある!」といってもらったことはないのだが。
 「童貞」にはニヤニヤ笑いで対応するが、「包茎」には黙ってうつむく。この態度の違いは何だ?と、しばらくナゾだったのだが、最近、表面的な見え方は違えど根は同じ現象だと気づいた。
 上にも書いたように、「ボクも童貞です」の真の意味は「もう卒業したけどネー」である。すでに脱した被差別カースト(童貞)にたいしては、彼らは冗談がいえるほど冷淡になれる。だが、いまだ脱していない被差別カースト(包茎)にかんしては、属している自分を自分でさげすみ、意気消沈する。つまり、被差別者ながら差別する側に同化してしまって、それに抵抗することをしない。
 差別が生まれる構造に取りこまれている点で、「童貞」にたいするニヤニヤ笑いと、「包茎」にたいする意気消沈とは共通している。根は同じというのはこういう意味である。あえて勇み足でいうと、ある一定数の被差別者が差別者に「昇格」するシステムができていて、差別する側もされる側もそのシステムに異議を唱えないというのが、童貞や包茎をめぐる差別のいまなのだと思う。
 さまざまな困難にぶつかりながらも、自身がこうむった性暴力を告発したジャーナリストの伊藤詩織氏を動かしたのは、妹たちを同じような目に遭わせたくないという思いだった。童貞差別や包茎差別の不幸は、「弟たちが苦しまないように」といって、立ち上がってくれるお兄さんがいないことにある。お兄さんたちは、自分が被差別カーストを脱したとたん、かつて受けた苦しみを弟たちに味わわせるのである。